街の風景

私は新興住宅地に住んでいる。

ここ十数年で急速に住宅が林立したところで、周辺は大手ハウスメーカーが建設した、企画化されきった住宅ばかりである。

 

多くの家には芝生と申し訳程度のシンボルツリーが植えられている。おそらく住人は、その木の名前を知っているかどうかさえあやしい。ハウスメーカーおすすめのスマートな木々だ。

 

きれいといえばきれいな街並みではあるが、合理的過ぎてかえって物寂しいものである。陳腐にいえば、そこに「個性」や「隙」がないからであろう。

 

そんな街に住む私は最近、「タイムスリップ」にはまっている。もちろん文字どおりの意味ではない。

 

私は昭和時代の地方都市で生まれ育ったのだが、故郷の町に似たような町が近くにあり、そこへ犬を連れて出掛けるのが、「タイムスリップ」なのだ。

 

形式的には、まったくの犬の散歩だ。自分一人では不審者と思われるため犬を連行する。自宅からその町は徒歩で20分程度だ。

 

昭和の町を歩くと、雑多な匂いが飛び込んでくる。代表するのは線香の匂いだ。伴侶に先立たれた独居の方が多いのであろう。朝方でも夕刻でも、そこかしこから線香の香りが、下水の匂いや大音量のラジオ音声に混じって漂ってくる。

写真はイメージです
写真はイメージです

そして街並みだ。

二度と開くことのないであろう錆びたシャッター街でも、所狭しと鉢植えの花木が置かれ、住宅と住宅の間からは、乱雑に伐採されかけた庭木が顔を出している。ガラクタだらけの倉庫まわりに朝顔が植えられたりしている。そこには庭のデザインといった概念が存在しない。

 

猥雑だが懐かしい景色だ。数十年前に故郷で見たのと同じような景色が広がっており、自分自身が小学生に戻ったような錯覚に陥る。

 

通りから垣間見る庭には、住人あるいはその先祖が自分の意思で植えたと思われるツバキ、マツ、イチジク、ヒマラヤスギや、鳥の糞から意図せずに巨大化したのであろう、シュロ、アオキなどが、住人たちの自己流の手入れによって独特の姿を展開している。

 

古い木々を手入れしている住人たちは、人目もはばからず下着姿で庭に出て、歯を磨きながら庭木を眺めたり、咲き終わった花殻をちぎりとったりしている。傍では犬種不明のミックス犬が吠え続けている。

 

新興住宅地ではけっして見られない風景で、こうした猥雑さが昭和の町の見どころである。まれに庭木の手入れが行き届いた御屋敷もあるが、たいていの庭木は、「なぜ、そんな形に刈り込んでしまったのですか?」、「なぜ、そんな形になっても大事にしているのですか?」と声を掛けてみたくなるようなものが多い。

 

しかし当の住人たちはおそらく「思い出」に支配されているのだろう。何かの記念に植えたとか、どこそこへ出掛けたときに買ったとか、亡くなった御主人が大事にしていたとか、先祖代々の云々・・・。

 

そんな景色を見ていると、庭を持つ楽しみというのは、けっしてキレイに管理することではないという思いを抱く。多少不恰好になっても、各人が各様に、時には思い出と戯れながら楽しむのが庭弄りの醍醐味であり、技術的にも試行錯誤する過程が楽しいものなのだ。

 

それに比べ、新興住宅地の風景は奥行きがなく味気ない。匂いさえも単調なものだ。住人の嗜好や生活感が滲み出るには相応の時間が必要なのだ。平成と昭和の町を行き来するのはおそらく、猥雑な風景に触れて心のバランスをとるのが楽しいからなのである。

 

いつもそんなことを考えながら、タイムスリップを楽しむのだが、付き合わされている犬には迷惑なようだ。早く家に帰ってエサを食べたくて仕方ない様子で、タイムスリップの終盤は、自宅へ向かって駆け出す犬に引っ張られながら帰宅する。これもさながらタイムマシンで現代に戻るかのようだ。

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