庭掃除の心

 庭掃除は面倒です。かつては私もそう思っていました。

 

 新人の植木職人は来る日も来る日も掃除です。朝、現場に到着してしばらくの間は、下草(サツキ、ツゲなど)の刈り込みをさせてくれる会社もありますが、仕事の大半は除草を含めた庭の掃除に明け暮れます。

 

 暑さ、寒さ、雨、蚊や毛虫との戦いはもちろん、時には相当に不快なものを処理しなければならないこともあります。嫌気がさして辞める新人さんも大勢います。というか感覚的には半分以上の人が、庭掃除の段階で辞めます。

 

 なぜなら目的や目標が見えていないからです。先輩職人が高い木に登っている姿は格好良いかもしれません。しかしそれは、ただの手段です。手を入れなければいけない枝が高いところにあるから、木に登っているだけです。

 

 街路樹などの公共の仕事は別として、個人の庭の手入れをする第一の目的は「景色を作る」ことです。景色を作るのは高木に限ったことではありません。上空も大事ですが、それ以上に、風景を描くキャンバスとなる地面を整然とすることが重要です。

 

 植え込みの中に跪いて手ボウキで地面を掃くのは、情けない下働きのように見えますが、キャンバスを磨いていると考えれば俄然やる気が出てきます。そうした心境に達することができなければ植木職人として独り立ちしても、毎日がつらいだけです。

 

 しかし実際には、そうしたことを教えてくれる先輩は少なく、経験を積む中で、自分で気付かなければいけません。

 

 夏の暑さや冬の寒さに耐えて庭掃除を続けているとある時から、肩の力が抜けて、庭に吸い込まれるように自然な作業ができるようになります。樹木の根が張っている向きに応じて箒を使ったり、掃除をしながら不要な下草を瞬時に剪定したりと、自然の求めに応じて迷わずに身体が動くようになります。

 

 やがて庭木の剪定も経験させてもらえるようになります。始めのころは目前の剪定に夢中ですが、経験を重ねると再度、地面の掃除の大切さに気付きます。そしてその頃には高い木の剪定に憧れるより、庭全体の景色の出来栄えに関心が移ります。

 

 西芳寺、天龍寺、恵林寺の作者であり、禅の庭を創造したとされる夢想国師は、一時代を築いた僧侶です。自然の中で修業し、自然の美からエッセンスを学び、修行として庭造りをしています。

 

 この文脈で高僧を登場させるのは、おこがましいのですが、庭掃除をしていると、いつもその名前が頭に浮かんできます。

 

 庭好きの方が愛着を持って自分の庭を掃除していれば、自然の求めに応じて、掃除せずにいられなくなるはずです。自然と一体になった感覚で庭掃除ができれば、苦痛であっても苦痛に過ぎなくなります。

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